今から10年以上前のことなのでよく覚えていませんが、思ったより貯金がなくなり気持ちの余裕があまり無かったような気もしますが、あまり気にせず元気にしていたような気もします。放浪後、残念と思ったことは、放浪して何か得られると思っていたのですが、特に何もな得られなかったように感じたことです。今思えば、何かしら得られていたのでしょうけど、数値で表現できないものは自分では気づけないものかと思います。一番迷っていた今後どこで暮らそうかということは、子供が二十歳になるまでは少なくともタイに居ようと決められたことで、気持ちが前に進めるようになりました。
タイでの何度目かの就職活動となり、当てにしていないまでも一応人材紹介会社に2社ほど登録してみました。元々、技術系の仕事をしていたので、何かを作ったり開発したりするようなことで探していただくようにお願いしたのですが、1社は八百屋さん、2社はそんなの見つからないですよと言われてしまいました。以前勤めていた時、何かあったら一応声だけかけて、と言って頂いていた元顧客のほうに相談に行きましたら、すぐに採用していただけました。その時の思い出としては、後3カ月くらい就職が遅れていたら、親にお金借りなきゃならないかもと考えていたこともあり、ほっとしていたような気がします。
この時就職できた会社は、仕事が私の趣味の延長的な部分もあり、大変でしたが非常に面白かったです。初めの1年は自分の給料分稼げていなかったと思いますが、それでも辛抱強く待っていただけた代表には今でも頭が上がらない思いです。また、お世話になっていながらも、決まったことは従うのですが、納得いかないと性格的に口だけは出すので、上司は呆れていたと思いますが、最終的に9年お世話になりましたので良い意味で受け取っていただいたのかと思います。
コロナ前のころから、会社の業績が芳しくなかったのですが、コロナ後半になるとかなり影響が出ました。その後の部品の入荷の遅れの影響も大きく人員の削減を進めたりもしたのですが、それでも追いつかないほど状況は良くなかったと思います。会社は何人かの出資者で設立し、代表もその1人でしたが銀行からの借り入れなども厳しくなり、他の出資者から融資を受けたりしておりました。そういったこともありその出資者の意向を無視できなくなりタイスタッフより給料の良い私が在籍する必要あるのかということからリストラとなりました。退職の通達出てから約20日ほどしかなかったので、引継ぎ書類の作成など結構バタバタした記憶があります。書類は良いのですが、営業的な部分や一部の購買的な部分が特に引き継ぐ方が居なくて何かあれば代表にお願いしますというように連絡していきました。サプライヤーさんはともかく顧客は少し心配になった方もいたのではないかと思います。私自身もその半年位前から、会社の状況やグループ会社に移籍をするような話も出ていたことから、恐らく自分が退職しなければならないだろうと思っていました。タイスタッフだけで会社を回せるように問題が出てもあまり表立った動きはしないようにしておりました。リストラとなる2カ月位前かと思いますが1人のスタッフからは、たいして仕事していないのに高い給料もらえていいなーと言われるまでになっていましたが、それでもいろいろなところからの問い合わせやクレームのメールをかなりの量処理はしていましたし、定年退職した事務スタッフの仕事の3割くらい私のほうで対処したりしていたので、まあまあ仕事はしていたのですが、残業はほとんどしないで帰れる程度でしたので、退職の数カ月前でも日本人顧客の対応を引き継げる方が居れば、特に私がいなくても会社としては問題なかったかとも思います。